怠惰

怠惰である自分が嫌いという怠惰を。

男友達からの告白

2019年になった。

 

ものの、今は何も変わっていない。昨日ひとりでお酒飲みすぎて、年越しの瞬間は寝ていた。あと30分だったのにな。今朝もそのお酒が残っていて吐き気とめまいで動けず。血圧が低下しているのを感じた。起き上がれず、録画しておいた番組とYouTubeをずっと観ていた。

 

西加奈子さんと椎名林檎さんの対談を観たのだが、西さんは本当に何か書き残すために生まれた人なのだと思った。書くための動機があって、創作の神様に向かって書いていると彼女は言っていた。何か表現したいこと、伝えたいことがコアにあって、その手段が小説を執筆するという行為であるということ。

私にそんなコアがあるのかな、と考えた。なんだか自己嫌悪との折り合いのつけ方がうまくなって、目をそらすのがうまくなって。コアがあるかなんて考えだしたらきっと元に戻ってしまう。自分が嫌いで嫌いで苦しくなってしまう。でも、それでいいんだろうかとも思った。きっとアーティストが自ら死を選んでしまうのは、こういう、自分の中のドロドロとしたところに目を向けてしまうから。そして答えのない問いを考え続けるからなのだろう。

言葉に責任を持とうとすればするほど、何も言えなくなってしまう。そういう気持ちを大事にしていきたいとも思った。素直でいたい。繊細でいたい。生きやすくなりたいと願っていたけど、生きづらくもありたい。鋭敏でいたい。

 

2018年は己の感受性を鈍化してきた節がある。

そうしないと生きられなかったと思う。実際今の方が生きやすい。楽しいことを追求して幸せを感じながら生きている。でも、きっと、この幸せは幸せではないんじゃないか。自分の生きる意味とは何か。忘れていた問いをまた思い出してしまった。

 

 

話は変わる。

 

 

ずっと仲の良い男友達だと思っていた人に、実は恋愛的な好意があったと告白された。今はそういう気持ちはないと。でも以前はうっすらとそういう気持ちがあったと。

正直すごくうれしかった。前々から私は自分のストライクゾーンに入っている人全員から恋愛的な好意を持たれたいという醜い感情を持っているから。私にはすごく良い恋人がいるが、それでも仲の良い男性に彼女ができるとちょっとがっかりしてしまう。まあ軽率に誘うことができなくなるという意味でも、なのだが。

そして今まで見ないようにしてきたが、私はストライクゾーンに入っている男性全員にうっすらとした恋愛的な好意があるなと気づいてしまった。きっと恋人がいないときにそういう男性に告白されたら、OKして付き合うだろう。出会うタイミングが違って、仲良くなるタイミングが違えばきっと彼と付き合っていた。まあそういう話をこの前互いに飲みながら電話したときに話した。ifの話、パラレルワールドの話は愉しい。

でももし恋人がそういう感覚だったらいやだなと思った。ストライクゾーンになんて誰もいないでほしい。本当に私は狡い。こんな話を恋人が彼の女友達としていたら、私はどうなってしまうだろう。きっと彼も同じ。だからこういう私は隠さなければならないなと思った。

 

このテーマで話したいことが結構ある。

正直私はもう恋人にときめかない。かわいいと思うことや、好きだ、愛おしいと思うことはあれど、付き合った当初のきゅんと胸が絞まる感覚とか、どきどきして喋れなくなる感覚はもうない。

だから、たまに私は恋がしたい、と思う。恋と愛は別物というのを痛感している。恋人と別れたいなんて全く思わない。しかし、ときめきがほしくなる時がある。どうしたらよいのだろう。抑制すればいいのだろうか。でもそれは根本的な解決ではない気がする。

今の恋人としか恋愛経験がないまま生きていっていいのか、悩む。欲を言えば、色々な人と同時に付き合いたい。恋愛の経験を積みたい。でもそれは今の状況では無理だ。たとえ彼が許したとしても、彼がこういう思想をもって他の誰かと付き合うなんて私は許せない。なぜだろう。自分はそういう思想を持っているのに、なぜ彼を許すことができないのだろう。

 

 

元日からこんなことを悩んでいる。2019年が思いやられる。